ゴーギャンがタヒチを選んだ理由は何??タヒチ以外はどこ??

なぜゴーギャンはタヒチへ向かったのか?

ゴーギャンがタヒチに向かった理由は様々な推測がされていますが最も濃厚ではないかといわれているのが…

“フランス・パリ(都会)の人工的な世界に嫌気が差した”

もう一つはゴーギャンの出自に関係があり…

“ペルー人の血筋だから”。

つまり望郷への想いからタヒチに移住したのではないかと言われています。

まずはゴーギャンの生い立ちを見ていきます。

ゴーギャンがタヒチに行った理由とは?ペルー人の血を引くスペイン貴族の子孫??

ゴーギャンは1848年フランス・パリにて生まれています。

ゴーギャンの両親や親戚は少し特殊な家系であり…

○ゴーギャンの父親・クローヴィス:共和主義者のジャーナリスト

○ゴーギャンの母・アリーヌ・マリア・シャザル

○ゴーギャンの母方の祖母の父親:初期社会主義の提唱者でスペイン貴族でありペルー人。

ゴーギャンが生まれた1848年のフランス・パリでは「二月革命」が起きた年。

二月革命…この革命はそれまでのフランス革命や七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体(※中産階級の事であり資産階級とも。)の市民革命から、プロレタリアート主体(※資本主義社会における賃金労働者階級のこと。)の革命へと転化した。

引用:Wikipedia(1848年のフランス革命より)

当初、社会主義の勢いがありましたが土地を平等に分けるために奪われることを恐れた農民の反発に合い社会主義を支持する人々は弾圧。

共和主義者でありジャーナリストだったゴーギャンの父親・クローヴィスもフランス・パリから追い出されることになったようです。

そのためゴーギャンの父親・クローヴィスは妻の親戚を頼って南米ペルー・リマへ移住しています。しかし、ゴーギャンの父親・クローヴィスは航海中に急死。

実はゴーギャンの母方の祖母の父親はスペイン貴族出身のペルー人!!

そのため南米ペルーではかなり有力な家系だったようです。

この時にはゴーギャンの母親・アリーヌ・マリア・シャザルはインカ帝国の陶芸品を収集したりしていたことからも裕福な状況が分かります。

ゴーギャンは南米ペルーで豊かな生活をしていたようですが、1854年ペルーの政権が代わるとゴーギャンの親戚は力を失い、ゴーギャンが7歳のときに今度は父方の祖父を頼ってフランス・オルレアンへ移住しています。

ポール・ゴーギャンはこのように3歳から7歳までの間ですがペルーで幼少期を過ごした想い出があるようです。そして、世の中の状況からフランスからペルー、ペルーからフランスと国を渡航する経験をしていました。

ゴーギャンがタヒチに移住したのはフランス領だから??

ゴーギャンの故郷に南米ペルーが深く関係していることは分かりましたがなぜペルーではなくタヒチだったのでしょうか??

その理由の一つとして考えられているのが…

フランス領だから

南米ペルーはスペイン領、しかし、タヒチ島はフランス領となっており当時ゴーギャンが移住するには最適であったと考えられます。

ゴーギャンは旅好き??実はタヒチ以外も?ゴーギャン流の旅の仕方は破産すること??

ゴーギャンといえばタヒチですが実はタヒチ以外にも足を運んでいます。

○ゴーギャンは10代の頃に商船の水先人見習いとして世界中を航海

○ゴーギャンが20歳となる1868年から1870年の2年間はフランス海軍として仕事をしています。

※この当時は絵を描くことはまだ始めていません。

○ゴーギャンが画家としてフランスを出たのは1887年にパナマへ渡航したのが初めてです。

ゴーギャンはパナマ滞在中に破産してフランス法により国費でフランス本国に帰国することになっています。

○しかし、何故か途中でフランス領であるマルティニーク島のサン・ピエールに立ち寄りそこで1887年6月から11月まで過ごしています。 

ゴーギャンはこのマルティニーク島で過ごした半年間で12点の作品を制作しています。

○ゴーギャン1891年4月1日にタヒチ島へ出航。

ゴーギャンはタヒチ島での最初の3週間はパペーテで過ごしています。

ゴーギャンの傑作といえばやはりタヒチ島で生み出された作品です!

ゴーギャンはタヒチ島ではタヒチの住民をモデルとした作品を多く描いています。

ゴーギャンが最初に描いたと言われているタヒチ住民の作品が…

『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』

だと言われています。ゴーギャンがこの時期に描いた有名な作品だと…

『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』

『イア・オラナ・マリア(アヴェマリア、マリア礼賛)』

しかし、ゴーギャンは再び国費で帰国。つまり再び破産したということでしょうか。

○ゴーギャンは1895年6月28日に再びタヒチ島へ。

ゴーギャンがなぜ再びタヒチ島へ向かったかと言うと、原因の一つに1895年6月号の「メルキュール・ド・フランス」に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレールがゴーギャンを批判する記事を書いたからだと言われています。

エミール・ベルナールはゴーギャンが1889年に描いた「黄色いキリスト」を自身が描いた「黄色いキリスト」を盗作したと主張して以前から険悪な関係だったようです。

1893年にタヒチ島からフランスに戻ってからゴーギャンはパリの美術界および私生活(※妻と離婚)でも上手くいかなくなっており、結果タヒチ行ったのではないかと言われているようです。

ゴーギャンは二度目のタヒチ島で最も有名な作品を仕上げました。

『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』

タイトルの『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』はまさにゴーギャンの一生を象徴するかのようだと言われています。

○ゴーギャンはタヒチ島移住後、1901年9月16日にマルキーズ諸島・ヒバ・オア島アチュオーナへ移住(フランス領)

ゴーギャン最後の移住地となったのがマルキーズ諸島・ヒバ・オア島アチュオーナです。

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin※フランス語)

  • 生年月日:1848年6月7日-1903年5月8日(54歳没)
  • 国籍:フランス

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