日本で知名度がある作品の一つにフェルメールが描いた『真珠の耳飾りの少女』があります!
『真珠の耳飾りの少女』は広告媒体でも定期的に使われおり目にする機会が多い絵画の一つ!!
この記事ではそんなフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のモデルの少女について噂されていることをまとめました!!
Contents
フェルメール『真珠の耳飾りの少女』のモデルは誰?
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)はオランダの画家でバロック絵画を代表する一人です。
フェルメールが描いたとされる実際の作品は実は少ないことと言われています。数で言うと33~36点、他に記録として残っているものが10点ほどあるようです。(※諸説あり)
@YKKnihonsi
— かっピー@クラシ家族 (@KAPPYE16) November 2, 2018
左が真珠の耳飾りの少女で、右がフェルメール様の自画像だと言われている絵です‼ pic.twitter.com/8XKy9AdspP
フェルメールは年に2、3点しか描いていないと言われています。
理由として推測されているのは…
- フェルメールは商業画家であり依頼がなければ作品を描かない。
- 1655年からフェルメールは実家の事業であるパブ・宿屋の経営も行っており多忙。
- フェルメールの妻カタリーナ・ボルネスの母親であるマーリア・ティンスが裕福であり資金をバックアップしてもらうことができた、またオランダ・デルフトの醸造業者であり投資家でもあったピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンがパトロンだっため数をこなす必要がなかった。
そんな生涯の作品点数が少ないフェルメールですが最も有名とも言われているのが…
『真珠の耳飾りの少女』
ヨハネス・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』1665-1666年頃 マウリッツハイス美術館 pic.twitter.com/CrZoL8rYY8
— 美術ファン@世界の名画 (@bijutsufan) September 3, 2019
オランダ・デン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館に所蔵されているフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』。
マウリッツハイス美術館
— えむ。 (@sweetmilkt_e_a_) February 20, 2020
フェルメール!!!!!
チケット買う時『どこから来たの?』て聞かれて『じゃぱんだよ』て答えたら『コンニチワ〜〜』て言ってくれた☺️✨うれしい!楽しい!! pic.twitter.com/ZsZBa1GsFq
フェルメールは『真珠の耳飾りの少女』を33歳か34歳となる1665年か1666年に描いたとされています。
『真珠の耳飾りの少女』のタイトルは他にも「青いターバンの少女」、「ターバンを巻いた少女」などとも言われています。
また『真珠の耳飾りの少女』は口元にかすかな微笑みがあることから『北のモナ・リザ』、『オランダのモナ・リザ』とも称されています。
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』で最も話題となるのがモデルをした人物は一体誰なのか?
フェルメール『真珠の耳飾りの少女』のモデルは『少女』の娘??
フェルメールの描いた『真珠の耳飾りの少女』のモデルは一説にはフェルメールの娘であるマーリアだったのではないか?と言われています。
またはフェルメールが雇っていた召使いの女の子ではないか??
別の説ではフェルメールの妻カタリーナ・ボルネス、恋人(愛人)?など諸説が数多くあります。
そもそもターバンを巻くと言う習慣が当時のオランダの若い女性にはなかったので、モデルはおらずフェルメールの想像上の女性だも言われているようです。
これは当時ヨーロッパで大きく勢力を拡大していたオスマン帝国(トルコ)の文化が影響しているのではないか?と言われています。
スレイマン1世 大帝。10代スルタン。
— オスマン帝国bot (@E_ottoman_bot) June 16, 2020
オスマン帝国最盛期の皇帝。ウィーンを包囲し地中海を掌握した。数多の遠征を成功させ西欧諸国から「壮麗者」と畏怖され内政面でも法を整備し「立法者」の異名をとる。 pic.twitter.com/a2fV7HMXPB
『真珠の耳飾りの少女』の特徴となる頭に巻いているターバンですがオランダ人が普段から巻いているものではないので、フェルメールの描いた『真珠の耳飾りの少女』は肖像画ではなくトローニーではないか?と言われいます。
トロ―二ーとは…特定の人物をモデルにして描く肖像画ではなく創作された肖像画
フェルメールは同じような時期に似た構図の作品を描いています。それが…
『少女』
#フェルメール の『少女』
— GIG.function (@GIG_function) June 19, 2020
この作品はフェルメールの娘をモデルにしたのではないかと言わていますね! pic.twitter.com/HXsIcLQXtf
この『少女』はいわゆるトロ―二ーではなくフェルメールの娘を実際にモデルに描いたのでは?とも言われています。
制作時期も1665年から1667年頃と『真珠の耳飾りの少女』を描いたとされる時期と被っており…
①自分の娘をモデルにした『少女』を描き構成などをテスト
②『少女』の作品は踏まえて『真珠の耳飾りの少女』を創作(トロ―二ー)
上記のような制作の流れだったとする推測もあるようです。
フェルメール『真珠の耳飾りの少女』のモデルとなった作品がある??モデルは処刑人???
またフェルメールは『真珠の首飾りの少女』や『少女』の作品は影響を受けた作品があると言われています。
それが…
『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』
#あなたの性癖を歪めた二次元キャラ
— バルブP (@WTM666W) December 12, 2015
【ベアトリーチェ・チェンチの肖像】 pic.twitter.com/bN3qvqwGi4
この『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』はイタリア画家グイド・レーニ(Guido Reni※1575-1642)が描いた作品です。
『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』のモデルとなっているベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)はイタリアの貴族の娘で1598年にイタリアで実際に起きた事件。
ベアトリーチェ・チェンチとその母親、兄弟は父親であるフランチェスコ・チェンチに性的虐待を受けており、耐えかねたベアトリーチェ・チェンチと家族と召使いは父フランチェスコ・チェンチを殺害。裁判の末、1599年にベアトリーチェ・チェンチは斬首刑となりました。
『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』でベアトリーチェ・チェンチが髪をまとっている白い巻物は、処刑人の剣に髪が巻き付かないようにするためだと言われています。
この事件はイタリアでは大変有名な事件であり悲劇的なことから文学や芸術の作品でよく題材となっています。
イタリアの画家グイド・レーニが描いた『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』はベアトリーチェ・チェンチが処刑となる前夜に描いたと言われています。
確かにフェルメールの『真珠の首飾りの少女』とグイド・レーニの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』はベアトリーチェ・チェンチが処刑となる前夜に描いたと言われて』は構図やターバンを巻いているなど似た要素が多いです。
どちらも好きな絵で甲乙つけられないんだけど、
— あさきち (@asakichi99) June 22, 2019
作品に、ストーリー性や、ミステリアスな部分を感じられると、
魅力は増幅する。
あと、本当にあるか分からない連動性も。
「真珠の首飾りの少女」と
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」
⊂( ・ω・ )⊃ pic.twitter.com/MfnpqnGGUy
しかし、フェルメールはオランダ・デルフトから生涯出ていないとも言われておりイタリアのグイド・レーニの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』を見る機会はなかったのではないか?とも言われています。
フェルメールの『真珠の首飾りの少女』はまだまだ謎が多く…
- 『真珠の首飾りの少女』には「IVMeer」(※Meerはフェルメールのサイン)という署名があるが、日付がないため制作時期がはっきりしていない(※1665年か1666年という説が強い)
- フェルメールが『真珠の首飾りの少女』を描くことになった経緯が一切不明。
フェルメールについては未だに学者の間で熱心に研究されているようなので今後の展開に期待したいですね!!
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)
- 本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)
- 生誕から死没:1632年10月31日(※諸説あり)-1675年12月15日(※諸説あり)(43歳没)
- 国籍:オランダ(ネーデルランド連邦共和国デルフト)
- 時代:オランダ黄金時代
- 絵画様式:バロック絵画
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